小林秀雄 その十
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222吾輩は名無しである

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高橋英夫さんを偲ぶ:文学を読むことは「感動」という基本姿勢に

仏文学者・清水徹さん寄稿

高橋英夫さんは、私の旧制一高文乙のクラスの同級生である粕谷一希さん(中央公論社員として活躍し、のちに「東京人」という特色ある雑誌を刊行した方)から、もう70年ほど前に彼の都立五中時代の親友で大変な蔵書家だと紹介されました。

その直後に、高橋さんは初の評論集『批評の精神』を私に送ってくださいました。

この評論集は「小林秀雄との出会い」という章から始まります。そこで高橋さんは、敗戦という混乱期に、小林秀雄の『モオツァルト』と『無常という事』に出会ったときの感動を熱っぽく語っています。

対象をばっさりと切る、しばしば喧嘩(けんか)ごしの時評家小林秀雄ではなく、作品との出会いの感動を鮮やかに浮き彫りにする批評家小林秀雄が、少年高橋英夫をどのように感動させたか、彼はそれを語ろうとしているのです。

文学作品を読むことは感動することだという姿勢が、高橋さんの基本姿勢なのです。続くページでは、河上徹太郎、福田恒存、神西清、林達夫、唐木順三といった、たがいに親和性に結ばれた批評家や、批評的な色彩の強い文学者たちが論じられます。

そうやって、批評家高橋英夫の姿がくっきりと輪郭づけられました。

そう、彼は「学者批評家」という定義がふさわしいでしょう。実際、彼はホイジンガという文人学者の『ホモ・ルーデンス』の翻訳を刊行することから文学活動を始めています。その後も、東大独文科出身らしくいくつかのドイツ関係の翻訳を発表しています。

また、『批評の精神』以後、モーツァルト好きの彼は小林の『モオツァルト』に応えるように美しいモーツァルト論を発表したほか、リルケ論、西行論、折口信夫論を書き、日本作家論としては、志賀直哉や清岡卓行などごく少数の好みの作家だけを論じています。

2024/05/22(水)00:24:23.17(hnFlVqzx.net)


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