64人間七七四年
65人間七七四年
66人間七七四年
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68人間七七四年 [sage]
69人間七七四年 [sage]
70人間七七四年 [sage]
71人間七七四年
72人間七七四年
73人間七七四年
あげとく
2013/03/17(日)13:10:19.51(3tctb3XB.net)
65人間七七四年
もうだれが最強でもいいんじゃないかな・・・(悟
2013/03/17(日)18:30:20.09(kWsHDNkz.net)
66人間七七四年
2013/03/18(月)10:54:59.48(mnDw+wIu.net)
67人間七七四年
春休みあげ
2013/03/20(水)01:52:45.93(sE8LftsP.net)
68人間七七四年 [sage]
>>29
一番下の文禄・慶長に関して。
負けというかなんというか、ただ左翼や半島人、在日が言う、
「朝鮮軍や明軍に圧倒されて、戦闘に負けて後退した」というのとは
カナリ違うのは確かだね、左翼・在日に毒されている文禄・慶長の役の見直しが必要。
秀吉軍の食料不足の原因には、李舜臣は関係なく、
文禄・慶長を通じ日本の兵站ラインである名護屋-壱岐-対馬-釜山の
海路は確保されており、釜山の物資が不足したことはない。
文禄では以下が要因。
1
朝鮮軍が弱過ぎて、予想より早く制圧しすぎたこと。
明から李氏朝鮮に日本の手引をしていると詰問された程。
2
小西行長が和平交渉をしながらという曖昧な状態で、
攻勢か防御かの意思決定がハッキリせず、食料の補給が遅れたこと。
3
文禄の役前後の朝鮮は腐敗政治や天災、農奴の脱走により、深刻な食料不足だった。
そのため現地調達もままならなかった。
4
人手不足、険阻な地形、部隊の突出、冬到来による渡航の困難、部隊の移動制限、
あと義兵の妨害等の要因で、食料遅配で内陸部の部隊は食糧不足に悩まされた。
(ちなみに義兵は李氏王朝の倉や民衆からも略奪、殺害することも多かった)
一番下の文禄・慶長に関して。
負けというかなんというか、ただ左翼や半島人、在日が言う、
「朝鮮軍や明軍に圧倒されて、戦闘に負けて後退した」というのとは
カナリ違うのは確かだね、左翼・在日に毒されている文禄・慶長の役の見直しが必要。
秀吉軍の食料不足の原因には、李舜臣は関係なく、
文禄・慶長を通じ日本の兵站ラインである名護屋-壱岐-対馬-釜山の
海路は確保されており、釜山の物資が不足したことはない。
文禄では以下が要因。
1
朝鮮軍が弱過ぎて、予想より早く制圧しすぎたこと。
明から李氏朝鮮に日本の手引をしていると詰問された程。
2
小西行長が和平交渉をしながらという曖昧な状態で、
攻勢か防御かの意思決定がハッキリせず、食料の補給が遅れたこと。
3
文禄の役前後の朝鮮は腐敗政治や天災、農奴の脱走により、深刻な食料不足だった。
そのため現地調達もままならなかった。
4
人手不足、険阻な地形、部隊の突出、冬到来による渡航の困難、部隊の移動制限、
あと義兵の妨害等の要因で、食料遅配で内陸部の部隊は食糧不足に悩まされた。
(ちなみに義兵は李氏王朝の倉や民衆からも略奪、殺害することも多かった)
2013/08/23(金)NY:AN:NY.AN(XbQVp3E5.net)
69人間七七四年 [sage]
また平壌陥落も、小西行長が和平交渉期限が過ぎたにも関わらず、
律儀にも返答の使者を待っている時に、5倍近い明鮮軍の奇襲を受けて
善戦したものの、明軍指揮官の勧告を受け入れ城を明け渡した。
フロイスも、従軍した将士たちから聞き取りしたところ、
唐入りの秀吉軍の死者のうち戦闘による死者はわずかで後は病死と記している。
翌文年からは本土からの補給の開始と突出していた
部隊が南部に後退したので解消。
準備を整えた慶長の役では補給の破綻は起きていないし、
慶長4年8月の豊臣秀吉の死までの間、遠征軍は
予定されていた作戦計画をすべて完遂させていた。
慶長の戦いでは、
南原城の戦い・稷山の戦い、黄石山城の戦い、巨済島、いずれも日本勝利。
過大評価されている鳴梁海戦では、日本水軍の中型船のみを用いた先鋒に
損害を与えたが、その後は日本水軍の圧力に耐え切れず、
李舜臣は北に逃走、全羅道も制圧され、水軍基地も占領された。
末期の戦いでも、
泗川の戦い (島津軍 7000VS明朝軍29015)島津の報告3万8千討ちとる 明史8万を失うとある いずれも誇張だろうが、大損害を被ったことは推測できる。
順天城攻防戦(小西軍13700VS明朝軍55000)陸海とも多数の死傷者と舟23〜39を失うとある 僉使黄世得も戦死
第二次蔚山城(加藤軍10000VS明朝軍29500)権応銖の報告では明軍の被害は数え切れないとある。
もいずれも明朝軍が敗北を喫している
12万以上を動員した一斉攻勢は失敗した。
宣祖実録十月十二日↓
律儀にも返答の使者を待っている時に、5倍近い明鮮軍の奇襲を受けて
善戦したものの、明軍指揮官の勧告を受け入れ城を明け渡した。
フロイスも、従軍した将士たちから聞き取りしたところ、
唐入りの秀吉軍の死者のうち戦闘による死者はわずかで後は病死と記している。
翌文年からは本土からの補給の開始と突出していた
部隊が南部に後退したので解消。
準備を整えた慶長の役では補給の破綻は起きていないし、
慶長4年8月の豊臣秀吉の死までの間、遠征軍は
予定されていた作戦計画をすべて完遂させていた。
慶長の戦いでは、
南原城の戦い・稷山の戦い、黄石山城の戦い、巨済島、いずれも日本勝利。
過大評価されている鳴梁海戦では、日本水軍の中型船のみを用いた先鋒に
損害を与えたが、その後は日本水軍の圧力に耐え切れず、
李舜臣は北に逃走、全羅道も制圧され、水軍基地も占領された。
末期の戦いでも、
泗川の戦い (島津軍 7000VS明朝軍29015)島津の報告3万8千討ちとる 明史8万を失うとある いずれも誇張だろうが、大損害を被ったことは推測できる。
順天城攻防戦(小西軍13700VS明朝軍55000)陸海とも多数の死傷者と舟23〜39を失うとある 僉使黄世得も戦死
第二次蔚山城(加藤軍10000VS明朝軍29500)権応銖の報告では明軍の被害は数え切れないとある。
もいずれも明朝軍が敗北を喫している
12万以上を動員した一斉攻勢は失敗した。
宣祖実録十月十二日↓
2013/08/23(金)NY:AN:NY.AN(XbQVp3E5.net)
70人間七七四年 [sage]
2014/03/31(月)00:56:27.64(48yiFXMS.net)
71人間七七四年
手取川の戦い
・上杉謙信(約18,000人)
・柴田勝家(約40,000人)(滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政他)
結果
・織田軍が粉砕されて全軍崩壊。
三方が原の戦い
・武田信玄(約18,000人)北条援軍(約3,000人)
・徳川家康(約8,000人)織田軍(約17,000人)水野信元(約3,000人)
(織田内訳予測:佐久間信盛(約9,000人)、林秀貞(約2,000人)、平手汎秀(約1,500人)、毛利長秀(約1,500人)、西美濃三人衆(約3,000人)
結果
・徳川家康と平手汎秀が粉砕されて、全軍崩壊。
毘沙門天と風林火山は別格だわw
・上杉謙信(約18,000人)
・柴田勝家(約40,000人)(滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・不破光治・前田利家・佐々成政他)
結果
・織田軍が粉砕されて全軍崩壊。
三方が原の戦い
・武田信玄(約18,000人)北条援軍(約3,000人)
・徳川家康(約8,000人)織田軍(約17,000人)水野信元(約3,000人)
(織田内訳予測:佐久間信盛(約9,000人)、林秀貞(約2,000人)、平手汎秀(約1,500人)、毛利長秀(約1,500人)、西美濃三人衆(約3,000人)
結果
・徳川家康と平手汎秀が粉砕されて、全軍崩壊。
毘沙門天と風林火山は別格だわw
2015/01/28(水)22:31:43.35(N/7FJX0O.net)
72人間七七四年
毘沙門天を兜に入れて関が原に出陣した黒田長政。
2015/01/30(金)11:29:50.41(BOcxvm3l.net)
73人間七七四年
兵力が2倍でも勝てない相手には勝てない。
2015/01/31(土)20:00:32.23(/PZBqVF4.net)