【信州小布施】北斎館2【前館長丸チョン】
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144名無しさん@お宝いっぱい。 [sage]

AAS

NG

>>136
カメですみません。132です。

リンク、ありがとうございます。
昭和57年に真贋論争に決着をつけたんですね。
70%の学者が本物と認め、でも30%程の学者にとっては疑問が残った。
結果、テレビは本物と伝えましたが「消極的な肯定」とい印象が強かったです。

ここから先は素人の考察であることをご承知の上お読みください。
私は研究者でもないし、北斎館へ行った回数じたい極少ないのです。

昭和57年の「北斎シンポジウム」で小布施町側が主に主張したのは、
晩年の北斎が3回、それも長期間小布施に滞在したという事実だったのではないかと思います。

九州電力のまちづくりシンポジウムの講演で唐沢氏が話しています。
贋作説が盛んに言われた理由は、
飯島虚心という人に「北斎伝」という北斎研究の著書があるが、
そのなかで、小布施については「北斎は小布施を訪れた」と述べるにとどめ、
他の地方のように、そこで何を描いたのか何も述べていなかった。
そのために、
「世界的に有名な画家が田舎の小さな小布施町で絵を描くわけがない」という声が多く出てきた。
(続く)

2011/07/10(日)23:45:54.41(qe28gLbO0.net)


145名無しさん@お宝いっぱい。 [sage]

AAS

NG

しかし、と唐沢氏は言います。
飯島虚心は自分の足で信州小布施には来ずにこの本を書いている。

「北斎シンポジウム」では、この町に残る古文書などを示して、北斎が小布施に長く滞在した事を証明した。
北斎を招待した高井鴻山はたいへんな富豪で、北斎のために画材をふんだんに取り寄せることのできる
経済力を持った人だった。

これらのことは証明できたのではないかと思います。
研究者、評論家の中の「小布施に北斎の作品があるわけがない」という理由だけで
贋作説を採っていた人たちはここまでです。

当時、新聞報道など読んでいなかったので、これは想像でしかありませんが、
シンポジウムに参加した先生方で、落款の号の署名と印章に矛盾がないか、別人の印章ではないか、
などたくさんの資料を必要とするような鑑定を行ったのか疑問に思います。
北斎作かどうかを別にしたら、収蔵品はまあまあの作品が並んでいたのではないでしょうか。
本物も混じっているはずですし。
開館当時は墨だけで描いたスケッチのような小作品が多かった気がします。

こんな経過で70%の先生方が真作とした、と想像しましたが、どうでしょう。
(続く)

2011/07/10(日)23:48:49.26(qe28gLbO0.net)


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