歴史群像 太平洋戦史シリーズNo49
沖縄決戦 学研
島田叡
県人口課長として沖縄戦を生き抜いた浦崎純は、その著「沖縄かく戦えり」で
かつての上司を厳しく批判している。「着任以来、戦局の悪化につれて
沖縄があわただしくなってくると、ロクに仕事も手につかないふうで、
いざ戦場になった場合、六十万県民を率いて突入する気迫など
まったく期待できなかった」昭和19年10月10日、那覇は大空襲を受けた。
この空襲に怯えきった泉知事は、県庁の職員はもちろん県民も捨てて、
普天間権現堂の洞窟の中に籠ってしまった。
中野好夫の「最後の沖縄県知事」によれば、1月11日朝、内務省から電話で
沖縄県知事の内命を受けた島田は、美喜子夫人に伝えた。
夫人は茫然とし、なぜ断らなかったのかと聞いた。島田は答えた。
「どうしても誰かが行かなければならないとすれば、いわれた俺が
断る手はないではないか。これが若い者ならば、赤紙1枚で否応なしに
行かねばならないではないか。それを俺が固辞できる自由を
いいことに断ったとなれば、俺は卑怯者として外も歩けなくなる。」
全職員が県庁の玄関前広場で新知事を迎えた。着任の挨拶は簡潔なものだった。
浦崎は前出書に書いている「人柄と叡知のひらめきが輝いていた。
温和ななかにも、ものに動じない不屈なものが皆を感動させた。おそらくこの日、
職員の誰もが深く印象づけられたことは、『この知事となら死ねる』という理屈を
ぬきにした人間的な私淑と信頼だったと思う」島田知事の動きは敏捷だった。
県庁機構を平時体制から戦争遂行体制に変え、職員の配置転換を行って
老幼婦女子の疎開誘導を徹底させた。
島田は”沖縄の最後”を決意し、それまで行をともにしてきた官房主事など