【WW2】沖縄戦について教えろ下さい【太平洋戦争】
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42名無しさん@お腹いっぱい。

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NG

歴史群像 太平洋戦史シリーズNo49
沖縄決戦 学研

編成から見た戦術
いずれの師団/旅団でも、日本軍の歩兵部隊は、米軍の歩兵部隊に
対しても、近距離戦ならば火力的に何とか対抗することができた。
そのおもな理由は、両軍の歩兵部隊が装備していた支援火器の違いにある。
具体的には、日本軍の各歩兵中隊には擲弾筒が9門配備されることに
なっているのに対して、米軍の歩兵部隊には同種の支援火器が
まったく配備されていなかったこと、米軍の分隊レベルの支援火器が
軽機関銃ではなくブローニング自動小銃(略してBAR)だったことが大きい。
BARは、箱弾倉の容量が20発と少なく、また迅速な銃身交換もできないため、
本格的な軽機関銃に比べると火力が低かった。

このため、擲弾筒や軽機関銃の有効射程である800〜500メートル
以内の接近戦ならば、アメリカ歩兵部隊の火力支援が比較的低く、
FO(前進観測者)やFDC(射撃指揮所)など近代的な射撃指揮能力を
持つアメリカ軍砲兵部隊も誤射の危険が大きくなり、支援射撃を行いづらいため、
互角に近い戦いを展開することができたのである。

2015/12/29(火)01:04:49.04(i0xeojST0.net)


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歴史群像 太平洋戦史シリーズNo49
沖縄決戦 学研

島田叡

県人口課長として沖縄戦を生き抜いた浦崎純は、その著「沖縄かく戦えり」で
かつての上司を厳しく批判している。「着任以来、戦局の悪化につれて
沖縄があわただしくなってくると、ロクに仕事も手につかないふうで、
いざ戦場になった場合、六十万県民を率いて突入する気迫など
まったく期待できなかった」昭和19年10月10日、那覇は大空襲を受けた。
この空襲に怯えきった泉知事は、県庁の職員はもちろん県民も捨てて、
普天間権現堂の洞窟の中に籠ってしまった。

中野好夫の「最後の沖縄県知事」によれば、1月11日朝、内務省から電話で
沖縄県知事の内命を受けた島田は、美喜子夫人に伝えた。
夫人は茫然とし、なぜ断らなかったのかと聞いた。島田は答えた。
「どうしても誰かが行かなければならないとすれば、いわれた俺が
断る手はないではないか。これが若い者ならば、赤紙1枚で否応なしに
行かねばならないではないか。それを俺が固辞できる自由を
いいことに断ったとなれば、俺は卑怯者として外も歩けなくなる。」

全職員が県庁の玄関前広場で新知事を迎えた。着任の挨拶は簡潔なものだった。
浦崎は前出書に書いている「人柄と叡知のひらめきが輝いていた。
温和ななかにも、ものに動じない不屈なものが皆を感動させた。おそらくこの日、
職員の誰もが深く印象づけられたことは、『この知事となら死ねる』という理屈を
ぬきにした人間的な私淑と信頼だったと思う」島田知事の動きは敏捷だった。
県庁機構を平時体制から戦争遂行体制に変え、職員の配置転換を行って
老幼婦女子の疎開誘導を徹底させた。

島田は”沖縄の最後”を決意し、それまで行をともにしてきた官房主事など
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2015/12/29(火)22:34:14.08(i0xeojST0.net)


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