【WW2】沖縄戦について教えろ下さい【太平洋戦争】
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39名無しさん@お腹いっぱい。

AAS

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牛島満
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E5%B3%B6%E6%BA%80

牛島は、無辜の住民を戦禍に巻き込まない方法はないかと苦慮し、着任してすぐ県知事と協議している。
当初は、輸送船を使っての住民疎開を考えたが、「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。
牛島は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたという。

また60歳以上の老人、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を北部に疎開させるよう指示を出した。
牛島としては、本島北部に住民を避難させて、軍民一体となった「玉砕」を防ごうとしたと見られる。
八原博通高級参謀も「サイパンの二の舞は厳に慎むべき」と牛島の計画を支持していた。

沖縄戦で多大な犠牲を払ったアメリカ軍は牛島を、「牛島将軍は、物静かな、極めて有能な人で、全将兵が心服していた。」と高く評価していた。
また、沖縄戦で第32軍の指揮をとった牛島と長勇参謀長と八原博通高級参謀の3名を
「牛島の円熟した判断力、長の軽快にして突進型の勢力、八原の機敏な識別力が三位一体となって、第32軍を非常に強力な軍隊にしていた。」とも評価している。
また、沖縄戦末期にアメリカ軍司令サイモン・B・バックナー・ジュニア中将から牛島宛に送られた降伏勧告文には「歩兵戦闘の大家である牛島将軍」と書いてあり、
それを八原から見せられた牛島は「いつの間にか、俺も歩兵戦術の大家にされてしまったな」と笑っていたと言う

司令部壕掘りを手伝っていた人物の回想では、「穏やかな人で、敬礼すると『学生さん、ご苦労』と言っていた。靴がすり切れたので、
はだしで作業をしていたら、『靴はどうした』と聞いて、早速新しい靴を持ってきた」という。

2015/12/27(日)10:16:16.35(hw8BehFe0.net)


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