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【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸

234日本@名無史さん

AAS

NG

>>230
〉日本武尊と武内宿祢って、王族か豪族かだけど
時系列やキャラって被らないか?

基本的に大王自ら軍を率いて戦うのは隠す方針だったらしく
関東方面にはタケル
九州方面には景行が軍を出したそうです。
故に関東方面に物部氏が入ってるわけです

武内宿禰は、初代は武内太田根。神功皇后のときは孫だかの、西都原の物部水軍の長になっていた武内襲津彦だったそうです。
武内宿禰も役職名なんですよね。ヒボコの使い方と同じで。

2022/11/14(月)09:45:27.29.net


235日本@名無史さん

AAS

NG

>>231
七支刀は、神功皇后経由ではなく、物部に直接渡されたというところが重要な点と思われます。

口伝の本では、実は成務が貰ったそうです。
実は成務は死んでおらず、奥方の神功皇后に三韓征伐(実際には高句麗は従わなかってのでニ韓征伐)を反対した事で、三行半を突きつけられたそうです。(故に名前がタラシ彦)
結局、奥方を見返したかったのか、成務は半島に参戦します。
成務は半島で半ば傭兵の様な暮らしをしてそのまま半島で没します。
故に、筑紫では物部は徴兵され、物部の勢力は衰えたそうです。
吉野ヶ里は、不思議と3世紀以降に衰亡レベルの文化の後退が確認されています。
半島の前方後円墳は少し時代はずれますが物部関係者の作った古墳なんだそうです。
時代的に私は蘇我かと思ってましたが。

故に宇佐古伝では、神功皇后の子供が不義密通の子としてかかれ、竹葉瀬君を正当な神武(崇神)の子として書いています
成務が生きていたから不義密通と書かれたわけですね。

2022/11/14(月)09:56:11.12.net


236日本@名無史さん

AAS

NG

成務を見限った皇后が次に頼ったのは九州の豪族である仲哀でした。
彼は後年の中臣家であってので、古い呼び名である中津を用いてナカツヒコと書かれました。
故に皇后が生きていたにも関わらずタラシが入りません。
この辺の設定のために、中臣やヒボコを物部に近づけたくてウガヤフキアエズや、宮下文書の様な同祖論を展開した可能性があります。
記紀編纂時は、中臣・息長家・物部(神道派)vs武内宿禰系(蘇我・三国国造系統・仏教)の争いがあって暗闘が繰り広げられて居ましたから。
出雲は中立に近い立場だった様です。
大彦系の関東は経済的には蘇我陣営でした。

2022/11/14(月)11:09:10.32.net


237日本@名無史さん

AAS

NG

>>232
あの銘文は、漢字を万葉仮名的に使用していること、天皇ではなく「大王(おおきみ)」と表記されていることなど古代史研究上きわめて重要な資料と考えられます。

確かにオホド、あり得そうですよね。
魏書の人物も基本的には音感の当て字であったと私は考えています

2022/11/14(月)11:19:52.63.net


238日本@名無史さん

AAS

NG

島根の銅山に関しては面白い記事があります。
http://native.way-nifty.com/native_heart/2008/05/post_4fb7.html

研究者は簡単に朝鮮半島経由とか言いますが
徐福渡来時代に露頭採取ではなく鉱脈から銅を掘り出す技術者が来ていたのではないかという遺構が半周では唯一島根から出土。
九州と出雲の間に青銅器の文化差はほぼないと考えても良いのではなかろうか。

出雲北山山地と、鷺浦あたりの龍山(辰山)は銅が取れました。

2022/11/14(月)11:58:11.60.net


239日本@名無史さん

AAS

NG

北九州に物部の後に入ってきたのが阿部などの男系尾張氏ではなかったかと私は考えています。
安曇はその頃に入ってきたのではないでしょうか?
そうでなければ村雲のあたりで入ってることになりますが、景初では敵に囲まれていたことになります。

2022/11/14(月)12:17:48.26.net


240日本@名無史さん

AAS

NG

>>231
〉仁徳から雄略は物部の王であって、七支刀を物部の氏神、
石上神宮に保存して、蘇我系となる王、継体には伝えなかった。

実際には武内宿禰の子孫のうち、平群ツクに始まる政権だった様です。
物部氏という解釈は非常に正確で、武内宿禰が男系尾張氏ではなく、物部彦であるという事にもつながります。
しかし、景初動乱で畿内側につき、敵方に回った男系物部の武内宿禰は、物部とは別の家と見做される様になりました。
つまり、平群と継体は、分家した時期は違いますがちょっと離れた親戚裾ということになります。

正直、平群朝の時の話が七支刀の時代という考えが私も離れません。
成務が半島に渡って半島で亡くなったたという口伝の話は、気持ち的に受け入れが難しいです

しかし、断片的にそれらを窺わせるのが吉野ヶ里の考古学的な衰亡時期であったり、宇佐古伝の遠回しな表現であったり、出雲口伝であったりするわけです

2022/11/14(月)15:32:30.94.net


241日本@名無史さん

AAS

NG

稲荷山鉄剣においては、大彦の息子であるヌナガワ別の安倍家のものと私は思っています。
高橋氏(タカヒシワケ)は、新潟から山形まで主に展開する氏名で、それらの地域には曽根、中曽根などの地名が多いです。
稲荷山鉄剣は、北陸方面と関東が繋がっていた事を表していると思います。

2022/11/14(月)15:50:23.71.net


242日本@名無史さん [sage]

AAS

NG

>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★


邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

百里

奴国(福岡県博多湾付近)

百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

水行二十日

投馬国(不明)

水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図が無かった古代では方角や距離を間違える可能性は十分あり得るが、日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、この時点で方角に関係なく不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ。
[全て表示]

2022/11/14(月)18:19:46.21.net


243日本@名無史さん [sage]

AAS

NG

■はいはい答え:畿内説は不要です
魏志倭人伝において里数で書かれた行程は中国側で持っていた情報であり、
日数で書かれた行程は朝貢に来た倭人から聞いた話である。
倭国大乱後に卑弥呼が女王となった事は中国でも話題となり、倭国に関する情報が多々存在していた。
陳寿はそれらの情報を精査し魏志倭人伝の下書きを作成していた。
そこへ女王国から倭人が朝貢に来たので更なる情報を要求したところ

~以下、倭人による行程説明~
・帯方郡から船で20日南下し、そこが投馬国
・更に船で10日南下して九州北部の邪馬台国に上陸ししばらく歩きます
・計約一月を要します

倭人が半島南部を投馬国、北部九州を邪馬台国と呼んでいる事を知らなかった陳寿は
位置関係がよく分からず既存の行程の後にそのまま追記してしまった。
この邪馬台国を北部九州と限定すれば九州説、日本列島を指すと解釈すれば西日本全域何処とも考えられる。
しかし、女王国の西側の国については一切触れられていないので、女王国の場所は西日本の中でも最も西に位置するはずである。
東には海が有りそれを渡るとまた倭種の国があった。そして南に狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。

■半島南部が投馬国
古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
https://nazology.net/archives/110991

■その他
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示す(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)

■各国の位置関係
(画像)

2022/11/14(月)18:31:28.20.net

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